ここは、普通の学生にはまったく関係ない文章ですので、ご注意ください。
また、あくまでも個人の意見によるものです。他にも考え方はたくさんありますから、ご自身の考えを優先してください。

はじめに:
最近、私のもとで研究指導を受け、査読付きの論文を出したいという人が増えてきました。査読付き論文とは、研究者が書く、科学技術を発展させたことを示す著作物のことで、普通の学生が書くような卒業論文や修士論文とはまったく異なるものです。しかしながら、私のもとで書きたい人が稀に発生しますので、私なりの研究に対する考え方をここに記載します。どうしてこんなことをいうのかというと、査読付き論文は、外部審査が入るため、てきとうに書いても落とされてしまうだけで、出版まで辿り着けないためです(レベルが低い雑誌は別です)。もちろん、私が勝手に思っているだけに過ぎない雑記なので、解釈には注意してください。ただ、少なくとも、私の指導を受けたいと考える人が、私と違う考え方で論文を執筆してしまうと、色々と不都合が生じますので、明示的にここに記載します。

なお、ここでいう論文とは、学会発表のために書く論文らしき原稿とか、卒業のために必要な卒業論文・修士論文などのような、全員に課されるものは指しません。あくまでも、研究で生きていきたい人であるとか、博士号を取りたいだとか、そんな人が書く、査読付きの学術論文のみを指すものとします。学会発表の原稿、卒業論文、修士論文、査読付き学術論文の違いがわからない人は、まずはその違いから調べてみると良いです。なお、研究職を志していない人は読まなくて大丈夫です。そういう方は論文を書く必要はなく、もっと人生スキル的なものを磨いた方が良いです。

研究の定義について:
そもそも研究とはなんでしょうか。これを知らないまま論文を書くなんてしてしまうと、まず間違いなく失敗するので、まずは研究の定義を知っておくことがとても大事です。研究というと、興味のあることに対して知見を深めるとか、そんな言葉が返ってくるかもしれません。でも、残念ながら、それはただの勉強や趣味に類するもので、研究の定義は満たしません。では、高度なデータ分析を使うだとか、統計の検定で有意さを示すだとか、ある変数間の相関係数を出すだとか、すごいアルゴリズムを使うだとか、数式をたくさんいじるだとか、たくさんの被験者にアンケートデータをとるだとか、巨大な装置を動かすだとか、そういうものでしょうか。私の感覚では、これも違います。それらは研究のプロセスで結果的に表れるだけであって、研究の定義とはあまり関係ありません。というのは、研究の定義はただ一つで、世界中の誰もやったことがないことをやる、これだけでしかないためです。自分が世界初であればどんなに簡単で単純なことでも研究の定義を満たしますし、そうでなければただの趣味に過ぎません。

新規性について:
では、自分がやったことが世界初であることを、一体誰が示すのでしょうか。それは自分自身です。自分以外誰も示してくれません。ですので、論文を書く際に、イントロダクション(はじめに)のセクションで、この論文は「世界で誰もやっていないことなんだ」としっかりアピールすることが必要です。論文を審査する査読者が、「この論文は、単なる趣味に過ぎないものか、それとも研究の定義を満たすか、どちらであるか」を見極めるポイントとなるためです。ある意味、内容よりも重要なところかもしれません。ここで、一番やってはいけないことが、論文をほとんど引用せずに、世界初だと自画自賛をするだけ、というものです。世界には70億人の人間がいて、研究者も無数にいて、莫大な量の論文がありますから、何も引用せずに世界初だといっても、誰も信じてもらえません。このようなとき、新規性を判断できない=研究の定義を満たすか不明である、という理由により、論文が不採択になります。なので、他者の論文をなるべく多く引用し、紹介しながら、自分たちが問題視することについて、世の中ではこんなアプローチで解決策がとられたりしているけれど、この点については誰もやっていない。だから自分たちがやる(やった)んだと記載することで、ようやく新規性があるため研究の定義を満たす、と評価されるようになります。このように、先行研究の引用は、研究の定義を満たしていると査読者に理解してもらうために必須の行為となります。では闇雲に引用すれば良いかと言われると、それも違います。例えば、

(A) 自分及び自分のグループの論文だけしか引用していない。
(B) 日本語の論文だけしか引用していない。
(C) 査読付きの論文を引用せず、学会発表の際に出版される原稿、大学紀要、卒業論文、メディアやWebページなどしか引用していない。

というのは良くないポイントです(もちろんやむを得ない場合もあります)。(A)は単純に、世の中にはあなた以外の研究者も無数にいるでしょう、その人たちは本当に何もやっていないのかと、疑われてしまうためです。審査する側からしてみると、自画自賛で新規性をアピールしているようにも見えます。もちろん、非常に特異なテーマで、本当に世界中で自分たちしかやっていないのかもしれませんが、もしそうであるならば、そうだと客観的に信じてもらえる記載が必要になります。ものにもよりますが、そのようなテーマは稀です。繰り返しますが、世界には70億人も人間がいるためです。(B)も結構単純な話で、日本人は1億人で、世界にはその70倍近い人間がいるでしょう、ということです。和文の論文だけを引用して、世の中ではこんなことがやられているが、自分たちが問題視することはやられていないんだといったって、そんなの誰も信じてくれません。日本という小さな国でしか流通していない言語の文献しか調査していませんよということになってしまい、調査不足なのでは、となってしまいます。もちろん、日本語の論文の引用が必ずしもダメというわけではありません。日本語を含めた上で、英語の論文も引用すると良いです。ただ、国際誌で日本語の論文を引用するのはあまり良くないかもしれません。国際誌の引用内に、日本人しか読めない文献があると、印象が悪いためです。最後に、(C)はどうでしょうか。これは若干微妙なところですが、不利になる可能性はあります。というのは、学会発表の際に出版される論文(らしきもの)や大学紀要、卒業論文、webページなどは、査読という外部審査プロセスを通過していません。つまり、それらのクオリティは低いものとみなされてしまいますから、どうしても信頼性が低くなります。だから、これらに該当するものをベースに話を作り上げても、信頼してもらえない可能性が出てきます。もちろん、このような文献にも重要なものはありますから、必ずダメというわけではありませんが。

有効性について:
それでは、新規性があれば論文が出版されるかと言われれば、そんなこともありません。最近はオンライン出版の論文も増えていますが、昔は紙ベースの出版が主流でした。ですので、一つの雑誌に載せることができる論文の量が限られるということになります。このため、新規性があり研究の定義を満たすものをすべて載せてしまっては、とても載せきれない、という問題に直面します。また、新規性はあるけれど一体それは何の役に立つのかわからない論文をいくつも集めて雑誌にし、出版しても、誰も読みません。どうも意味がない気がしてきます。だから、新規性がある=研究の定義を満たす、これだけではなく、なるべく社会をより良くするもの、重要なものを載せよう、という考え方が出てきます。これにつながるのが、研究の有効性という概念です。工学系の場合は、どれだけ社会に役立つかを考えれば良いと思います。すると、これもやはり、イントロダクション(はじめに)のセクションで自らアピールすることが必要になります。世の中にはこんなに困った問題があるんだということを書いて、それを解決する必要性を述べること大事です。ここでも、きちんと他者の文献を引用しながら問題を説明することが必要です。これをしないと、なんか問題っぽくいっているけど、あなた単体が問題視しているだけなのではないか?、本当にみんなにとっても問題なのか?と疑われてしまうためです。一点注意なのは、新規性はないが有効性があるものは、そもそも研究の定義を満たしていないので、論文にはなりません。先ほどいったように、それはただの趣味になってしまいます。

イントロダクションの書き方:
これらを踏まえると、イントロダクションの構成が以下のようになることがわかると思います。

1. 世の中にはこんな問題がある。
2. 解決すると、こんな感じで世の中が良くなる。
3. Aさんはこういうアプローチ、Bさんはこんなアプローチで、(略)、解決を目指している。
4. これらはとても有効で、価値がある研究である。
5. しかし、この問題に関して、ここらへんのアプローチは不十分である。
6. ここをきちんとやって、あれを実現したならば、これこれこういう理由で、問題解決に高く寄与するだろう。
7. だから自分たちは、それをやる。

大事なことは、新規性と有効性の両方をきちんとアピールすることです。

信頼性について:
それでは、新規性があり、有効性が認められたら、査読に通過するかと言われれば、そんなこともありません。当然ですが、中身も重要になります。例え世界で誰もやっていなくても、とても大事な研究でも、中身がおかしければ不採択になります。中身のおかしさには無数の種類があるので、すべては記載しませんが、私になりに大事だと思う信頼性について言及します。これを理解するために、以下の状況を考えます。

・20歳前後の60人の人間がいる。
・それを、30人のグループAと30人のグループBに、ランダムに分割した。
・そして、Aには特別な授業をして、Bには普通の授業をした。
・その後に行ったテストの点数は、Aの平均点の方がBの平均点よりも、統計的に有意に点数が高かった。
・したがって、特別な授業は、高い教育効果を有することが明らかとなった。

この文脈で、信頼性がないと解釈されるポイントはいくつかあります。まず、グループAとBの初期の学力は同一なのか、という点です。もしもAの学力が高いのであれば、スペシャルな授業には効果がないことになります。ランダムに分けたのだから、差がない可能性はもちろんありますが、その証明は不可能です。結論の誤りが疑われるわけですから、信頼性が低いと解釈されます。これを回避するには、初期の学力に差がないように分割することが必要です。ただ、これを行ったとしても、信頼性がないポイントがあります。それは、「特別な授業に高い教育効果があると明らかになった」という記述です。つっこみどころとしては、

・今回の被験者でその結果が出ただけで、被験者を変えたら違う結果になるのでは?
・平均値の比較に過ぎないので、個別の被験者を見れば、Bに属する人が、Aに属する人よりも学力が伸びたこともあるのでは?
・最後に行うテストの問題を少し変えたら、結果が逆転する場合もあるのでは?
・グループBに授業を聞かない不真面目な人がちょっと多くいた可能性は?
・20歳以外の人間に成立する保証はまったくなくない?

です。これらの可能性はどれも拭えません。端的にいうと、人類70億人いて、たった60人を取り出して行ったことにより得られた実験が、全人類に成立する保証などどこにもないのです。では60人全員に成立した現象かといえばそんなこともなく、あくまで平均的にそうだっただけで、個々の人間を見ればBの方が学力が伸びた事例だってあります。そして最後に、学力の伸びを測定するテストが変われば、結果が入れ替わる可能性だって考えられます。では全人類を集めて実験すればいいのかというと、それは不可能です。統計学では、非常に強力な数学的仮定をおいて、ある基準を超えたら信用しても良いと解釈しますが、あくまでも人間の都合です。したがって、特別な教育が高い教育効果があることを証明することは原理的に不可能で、我々人間ができることは、そうかもしれない可能性を提示することだけに過ぎません。所詮は、人類の中から取り出されたごく少数の被験者内で、しかも個々の人間ではなく平均値として圧縮されたデータにおいて、差があっただけにすぎないことはきちんと認識しておくことが必要です。「明らかになった」などと書いてしまうと、今回の分析で主張して良いところを遥かに超えて、大きな結果を出したかのように思われてしまい、信頼性がないという印象を持たれるかもしれません。感覚的には、「教育効果が高いかもしれない傾向が、ほんのり見られた」、せいぜいこの程度です。そして、研究の限界として、「今回はあくまでも限定的な状況下で得られた結果でしかないため、XXXやYYYが変化すれば結果が変わる可能性があること。そのため今後は、ここら辺をもっときちんと調べていく必要があること」などを言及し、論文を閉じることが必要です。

これ以外にも多数ありますが、信頼性が高いと判定してもらうには、

・誇張していない。
・限界と弱点をきちんと明らかにしている。

が重要です。これと逆に、

・誇張している。
・限界と弱点を明らかにしていない、ないしは、著者自身が理解していない。

などをしてしまうと、信頼性が低い論文と解釈されます。

再現性について:
論文とは、読んだ人のためになるものでなければなりません。例えば、「テキストが表示された画像データから、画像処理により、テキストを抜き出すアルゴリズムを提案した」という論文があるとします。この手法がどれだけ新規で、有効で、精度が高くとも、そのアルゴリズムが厳密に書かれていなければ、読者は再現することができません。論文とは著者のためにあるものではなく、あくまで世の中をよりよくするためにあるものですから、読んだ人が再現できなければ意味がないことになります。そのため、どんな研究領域においても、書いていることを読者が再現できるレベルにまで詳細に、厳密に書くことが必要です。アルゴリズムなら手順を、実験系ならば実験手順を、という感じです。もちろん、読者はデータを持っていないので、完全に同じ結果を再現することはできませんが、その可能性を少しでも高めてあげるような書き回しが必要になります。これがない場合、再現性がない論文とみなされ、不採択の原因となります。また現在では、データやプログラムの提出を必須にしている論文誌が増えてきています。研究の再現性を重視していくことの必要性を物語っているのかもしれません。

見た目をきれいにする:
素晴らしい研究をして、素晴らしい結果が出て、素晴らしい論文をかけるかというと、普通はかけません。少なくとも私は書けません。そういう人が論文を通すためには何をしなければならないかというと、それは、

・誤字脱字はないようにしよう
・図の解像度は高めて、読めない文字がないようにしよう
・1つ1つの参考文献を、すべて統一させたフォーマットで書こう
・数式はきれいに書こう
(とにかく、論文全体をきれいに仕上げよう)

です。私はたいした論文を書けませんので、ここら辺は特に気を遣っています。どうしてこれをするかというと、それは、論文の審査をする人は、人間であるためです。見た目があまりにもひどい論文を見せられると、嫌な気持ちにもなりますし、怒る方もいるかもしれません。そうすると、論文が採択される可能性が減ります。コンピュータが論文を審査するのであればそんなこともないのでしょうが、あくまでも心を持つ人間が審査することを思い出すと、査読者に汚い論文だなと思われないような工夫は、やはり必要です。この論文、ちょっと穴があるけれど、通したいなと思わせるようなものに仕上げる方が良いと思います。

指導を受ける学生の皆さんへ:
私の指導を受けた上で、査読付き論文を書こうとしている人は、新規性・有効性・信頼性・再現性すべてを満たすテーマにおいて、こられを適切にアピールし、かつ、きれいな原稿の執筆を心がけていただけると、色々スムーズです。私がつっ返す場合は、概ねどれかの欠落が原因です。

でもやっぱり不採択も必要:
なるべく不採択にならないようにしたいので、そういう話を書いてみましたが、でも、不採択は必要な気がします。どうしてかというと、その通知が来たときに、不採択の理由を教えてもらえるからです。これは、自分の研究の良くないところを知るきっかけにもなり、ここはもうちょっとこうした方が良かったとか、サボらずにもうちょっと深く分析した方が良かっただとか、そんな内省が湧き起こるからです。こういう経験は間違いなく、次の研究をより良いものにします。逆に、とてもゆるいジャーナルに出し続けて、不採録を経験していないと、自分の悪いところに気が付かないまま生きていくことになるので、あまり良くないような気がします。